愛という言葉に酔って - 春にして君を離れ

「袋小路風」

ぼくのいうことが正しいと言うことがなぜわかるというのか?ぼくがそう信ずるからだよ。自分の経験として知っているからだよ。アヴァリル、僕は今、父親としてだけでなく、一人の男として君に訴えているのだ

楽しめなくなる様な紹介はしていないつもりですが、あらすじに触れていますのでご注意を!!

アガサ・クリスティを知っていますか?ミステリの女王と呼ばれた作家です。ミス・マープルシリーズや名探偵ポワロシリーズを書いています。彼女は実はミステリ以外にも何冊か作品を残しており、これもその一冊です。当初この本を出版した時はミステリと間違えられたら困るので別ペンネームで出したというエピソードもあるのだとか。
それにしてもアガサ・クリスティはおしゃべりで独善的な女性を描くのが非常に上手い。この作品の主人公の女性ジョーンもそんな典型的独善主婦です。周りの人たちは家族を含めそんなジョーンに辟易しているのですが、彼女は自分は誰よりも献身的にみんなのことを考えている人だと思い込んでいます。そんな彼女が、とある旅行の帰りに電車の事故で、何も無い砂漠の駅に数日一人で足止めされます。命に別状はないのですが、やることの無い彼女はぼーっと色々な事を考え、過去を思い出します。過去を思い出しながら、一番知っていると思っていた自分自身と自分の周りの人たちとの関係に対する認識が徐々に変化していきます。
私って、今まで皆の為に頑張ってきたよね?
本当に、皆の為だった…よね?
皆の尊敬を受けていた…よね? …本当に?
とまあ、こんな物語です。リアルタイムに何かが起こるという話ではなく、ジョーンの従来のパラダイムによる過去の追想が、徐々に別のパラダイムによる認識で上書きされていくという形で物語は描かれていきます。振り返る過去に時々浮かび上がりかける真実を、しかしジョーンは無意識に押さえ込みます。ところが当然読者には、それぞれの過去に対し、彼女自身の立場と、彼女以外の人の立場からそれぞれどのように見えているのかがはっきりと分かるわけです。分かるからこそ、ジョーンの無明ぶりが読んでいて辛いのです。
しかしそんなジョーンも、砂漠で日々を過ごすうちに、ついに自己欺瞞に気づきます。

アヴァリル、トニー、バーバラ、私は子どもたちも愛していた…いつも変わらず愛しつづけてきた…
(でもそれだけでは足りなかった--愛するだけでは十分ではないのだ--)

砂漠の中、突如ジョーンにビジョンが見えます。今までの半生を振り返り、その半生の意味が全く変わるのです。自分がいかに人を苦しめてきたか。愛していたが故に、やってはいけない方法で愛する人々を苦しめてきたか。そして自分はいかに孤独だったのか。その孤独であるということにすら、今まで気づかずに過ごしてきたのか。
自分で自分の過ちに気づき、これからはきっと生まれ変わろうと決心するジョーン。丁度そのとき、止まっていた電車は動き始めます。ロンドンに帰るジョーン。愛する夫、娘、息子達に、生まれ変わった自分を見せることを楽しみにしながら。
昔、MASTERキートンという漫画だったかな、その中で何か強烈な体験をした登場人物が次のような事を言っていたのを思い出しました。

「自分はこれで生まれ変われると思った。今までの自分を全て捨てられると思ったんだ」
「でもそんなことはなかった。明日になったら、いつもどおりの毎日が待っているだけだった。何も変わらなかったのさ」

さて、本作ではどうでしょうか?

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)