主人公と共に成長する読者(麦ふみクーツェ)

麦ふみクーツェ (新潮文庫)
いしいしんじ著「麦ふみクーツェ」読了しました。

あらすじだけを話すことはできるけれど、それでは何も伝えたことにならない、そんな物語です。とはいいつつ、まずはあらすじを。

主人公は「ねこ」という少年。子供のころから人並みはずれて背が高く、ちょっと回りから距離をおかれる人間関係を歩んできました。父親は素数にとりつかれたちょっと頭がおかしな数学者で、祖父は音楽に命をかけています。水夫達のけんかの絶えない港町で、「ねこ」は様々な人と出会い、様々な人生を見知ります。

とまあ、そんな話です。 ちなみに「ねこ」の周りの人々は大概が変わり者で、その中の大体が死んでしまったり財産を失ったりと不幸な目にあったりします。でも、それでお涙頂戴という話ではありません。「ねこ」はそういった様々な人生に触れ、生きるってことについての断片的ななにかを、ぼんやりとながら少しずつつかんでいくのです。また、「ねこ」は途中から音楽を志すことになるのですが、その過程で、音楽と人生についての関係についても徐々に考えるようになっていきます。
そして読者である自分も、「ねこ」の成長と一緒に何かが成長していく、そんな小説です。

音楽にのめりこみはじめた「ねこ」が、演奏の練習に苦心するシーンの一文です。

何度やりなおしても、曲のどこかしらにほころびはできた。ほころんだ音がきこえはじめたことで、ぼくたちは音楽のあたらしいたのしみと、苦しみに気づいた。完璧な演奏なんて、この世にはない。耳がよくなればその分、ほころびはいっそうやかましく耳につく。


盲目のおじさんに今は廃校となった盲学校に連れて行ってもらって、砂浜で夜空を眺めたシーンです。

ぼくは星空に目をうつした。目の前の無数の光から、もし音がききとれたとしたら、いったいどんな音楽になるんだろう。


「鏡なし亭」の娼婦に、演奏のアンコールを頼まれたときには

ぼくにはわかりかけていた、ほんとうにききたい相手にむけまじめにならす音楽は、けっしておまけなんかにはならない。


終盤でのとあるセリフ

「みどり色は何十万にひとりなんかじゃない。この世でたったひとりなんだ。ねえ、ひとりってつまり、そういうことでしょう?」


これ、時系列に並べたんですが、自分でも今気づきました。「ねこ」の興味は、音楽の技術的な側面への探究心だけだったのが、徐々に人間そのものについての洞察へも進んでいるのですね。しかも、それが物語にさりげなく挿入されています。上手いなあ。
話の流れだけを追っていると荒唐無稽なものに見えますが、それでも読中の感覚が破綻しないまま読み進められました。幸せなひと時をありがとう。